今年のゾンビは今年のうちに。
しばらくぶりになりましたが、10月にアルタ前シャベリ場で話させていただいた「ゾンビ・スピーチ」三部作の最終回です。
読み返してみると、ほぼアメリカ
E.E.U.U.に対するヘイト・スピーチです。だいたい何の話をしていても、結局そうなっちゃうんですが、先日は年末年始映画まつり、ということで、お題はもちろん「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」(まだ観てない)。「STAR WARS的にはアメリカが帝国であり、イスラム教徒がジェダイ」という乱暴な結論に至りましたよ。
以下演説原稿より。
新宿駅前をご通行中の生ける屍、ゾンビのみなさん。来週はハロウィンですね。今年もゾンビのパンデミックが予想されていますが、せっかくゾンビの仮装をするなら、その前にゾンビについて知っておいていただきたい、そういう思いで三週連続でお話させていただいています
「アルタ前白熱教室:これからのゾンビの話をしよう」本日いよいよ最終回
「これからのゾンビの傾向と対策」です。
なんでこんな「戦争させない」とか「アベ政治を許さない」と書かれた只中で、ゾンビの話をしているのか。実はゾンビこそが、反戦、反資本主義のアイコンだから・・・と、言いたいところなんですが、残念ながら、そうとばかりは限りません。なにせゾンビは死んでいるので、生きている人間の勝手な都合で、さまざまな役割を負わせられてしまう。まぁ、私がこれまでうるさく言っているような、ゾンビで反政府革命を、というのもそのテの解釈なんですが。
しかし、先々週お話した、ゾンビの基礎、ジョージ・A・ロメロ監督のオリジナル・ゾンビでは、ゾンビは革命だ、そういう主張がなされているわけです。ロメロ監督の映画はゾンビの仮装をされる方は、必ず観ておいていただきたいのですが、ロメロ監督はゾンビというアイコンを使って、社会状況、政治体制、そして人間の哲学を語ることが可能であることを証明しています。
いまや、世界のほとんどはゾンビ化しているといってもいい。ゾンビでないものは世界に存在しない。本日はそうした各国のゾンビ状況と、今後の課題をテーマにしたいと思います。
ゾンビに関する現在の研究課題は、多岐に渡っています。
ゾンビ研究家というものは、十年一日、「走るゾンビは是か否か」ということだけを争点にしていると思われがちですが、まぁ、それも重要な課題ではあります。私は「走るゾンビ」は完全否定派です。だって走るだけの筋肉と神経が生きているのであれば、歩くのだって、いわゆる「ゾンビ歩き」じゃなくて普通に歩けるはずだし、そんなゾンビ嫌でしょう。
それはともかく、ゾンビの問題というのは、国際政治の課題であったり、消費社会のあり方を問うものであったり、労働問題だったりするのですが、今日は、現在のゾンビについての議論のうち、「人権問題としてゾンビ」のことを取り上げたいと思います。
ゾンビというのは、死体が甦って歩き出すモンスターです。つまり、元は人間なわけです。最近は「ゾンビーバー(本ブログ「ケダモノたちのサマーナイト」で言及)」というのもありましたが。
では、人間はどこからが死者でどこまでが生きた者なのでしょうか。たとえば、さきの「走るかどうか」。通常であれば、動かなくなった者が死者ですが、ゾンビは「歩く死者」であることで、その境界線を取っ払ってしまっています。では、意識がないと死者なのか。記憶がないと死者なのか。魂がないと死者なのか。
ゾンビというタームは、哲学的にも、生命倫理の問題としても、人間とは何か、生命とは何か、ということを常に突きつけてきます。
ゾンビ映画においては、大量発生したゾンビ、ゾンビは伝染しますから、かならず増殖するんですが、生き延びよう、コミュニティを守ろうとする人間は、ゾンビを殺すことで対抗するのが一般的です。力には力を、対ゾンビ戦争だ、テロとの戦いだ、安全保障法制だ、という論理です。
その極限となったのが、2013年に公開されたブラッド・ピット主演の「ワールド・ウォーZ」、世界ゾンビ戦争。
しかし、テロとの戦い、という言葉に矛盾があるのと同じように、ゾンビと「戦争」という手段で対抗するということは、矛盾があります。なぜなら、テロリストと同じく、ゾンビとは我々の中に存在するからです。いや、テロリストよりもゾンビのほうがもっと親密です。だって人間が死ぬとゾンビになるわけですから、今隣で戦っていた同胞兵士が、一瞬でゾンビになってしまう。自分だって必ず死ぬ。死んだら必ずゾンビになる。
ゾンビは人間すべての中に内在する、つまり死そのものなのですから、それを食い止めるために「戦争」というのは、完全な矛盾です。
この映画「ワールド・ウォーZ」は、いかにアメリカという国が、軍事以外の手段を考えることのできないバカ、あぁ失礼、非常に偏狭な考え方で世界を支配しているか、ということを示しています。
ついでにこの映画で対ゾンビ対策を作り上げるのは、イスラエルと南アフリカ。つまり、ゾンビに対して、戦争、ジェノサイド、アパルトヘイトという、人類がこれまで人類に対して行ってきた、最悪の、汚い手段をふたたび振り回す、そういう邪悪な回答を出しています。本来原作の小説では、それがギャグだったんですが、ブラピとハリウッドがマジで撮ってしまった(ちなみに私は映画は観ていない・・・観てからクサせよ)。
しかし、このようなゾンビ虐殺傾向が始まったのは、残念ながらアメリカ発祥ではないかもしれません。もちろん、ほとんどすべてのゾンビ映画において、人間はゾンビを殺すのですが、ロメロ監督のオリジナル・ゾンビでは、ゾンビ虐殺が批判的に描かれている。ゾンビは殺していい、という大きな転換点を作ったのは、実は日本です。
映画からゲームへ。「バイオハザード」です。
ゲームはゲームですから、点数を上げるためには、ターゲットを倒すというルールです。「バイオハザード」ではそのターゲットがゾンビ。だから「ゾンビは殺していいのかどうか」というような倫理についてゆっくりと考えている場合ではありません。とりあえず撃たないと。
しかし、ゾンビが映画からゲームへ、そしてまた映画へ。
今日の夜テレビでも放映されるみたいですが、ミラ・ジョボビッチが主演して、日本製のゲームがハリウッド映画になった。このシリーズは日本では「バイオハザード」というタイトルですが、アメリカ版は違います。「Residents Evil/邪悪な住人」。日本では「ハザード」災害、というニュートラルなものだったのが、Evil、邪悪という名前でもって、絶対的な敵としてしまった。
これはアメリカお得意の「悪の枢軸Axis of Evil」とかいうフレーズをそのまま連想させます。映画「バイオハザード」の第一弾は、2002年、当時の大統領はジョージ・W・ブッシュ、アフガンとイラクに侵攻している真っ只中です(ちなみにこれまたゲームもしてないし、映画も観ていない・・・)。
敵か味方か。そして敵と見なしたものは、すべて殺す。ゾンビが本来持っていた、人間自身に内在する敵、死の問題、などという哲学的命題は、ここで破壊されてしまいました。
しかし、この破壊によって、逆にゾンビ陣営からは、問題提起が起こってきます。ゾンビのヒューマニズムの問題です。
「バイオハザード」や「ワールド・ウォーZ」という、ゾンビならばんすかばんすか殺しちゃっていいよね、という考え方に対して、果たしてそれでいいのか、と。元々人間であったゾンビを、人間が殺しまくるのは、ヒューマニズムに反しているのではないか、と。まぁ、ゾンビ、死んでるんですけど。
私は今、ゾンビの話をしているのであって、人間が現に今行っている戦争の話をしているわけではありません。なんかの比喩だなんて、ヤボな話です。しかし実は現在、人間同士の戦争においても、一応、ヒューマニズムとか人権を考慮したルールというものがあります。捕虜を虐待や拷問してはいけない、とか、民間人を殺してはいけない、とか、病院や避難所や学校を狙ってはいけない、とか、クラスター爆弾やタル爆弾は非人道的だから禁止、とかね。何ひとつ守られてませんが。
こうした人道上の問題、まぁ、人間に対して守られてないものが、ゾンビに対して守られるわけがないですが、ゾンビはどこまで人間なのか、人間ならば、ゾンビの人権はどうなるのか。これがゾンビにおけるヒューマニズムの問題です。そして、「人間性」の問題にはもうひとつの側面があります。それは、殺す側の「人間」のヒューマニティはどうなるのか、ということです。
ゾンビをばんすかばんすか殺していて、殺した人間の人間性は保たれるでしょうか。ましてやゾンビは遠い砂漠にいるわけではない。大量発生したら、民間人の暮らす都市、住宅、すべてが対ゾンビの場となり、訓練された兵士ではなく、民間人が自分でゾンビと戦わなくてはならなくなるわけです。
ゾンビ・パンデミックが起こり、人々がゾンビ、元は生きていた人間、しかも隣人だったり家族だったり、恋人だったりするかもしれません、そんな人々を互いに殺しまくったら、どうなるでしょうか。もしも対ゾンビが収束したとしても、生きた人間の側に大量のPTSD(心的外傷後ストレス障害)が発生するはずです。つまり、生き延びた人間の魂も、結局死んでしまう。
ふつうの戦争においても、兵士というのはそういうものです。今アメリカでは帰還兵のPTSDが非常に深刻になっています。平穏な日常になじむことができず、戦場のことをどうしても思い出してしまう。挙句に、こっちの世界の方がおかしいのではないか、という感覚にとらわれ、最悪の場合は自分のふるさとの街で銃乱射。
このようなPTSD兵士による暴力、というのは、いろんな映画でも繰り返し描かれています。「ディア・ハンター」とか「ランボー」とかね。
ゾンビもの(正確にはどうだろうか)でも「地獄の謝肉祭」というのがあります。ベトナムで人肉食べた兵士が、国に帰ってもまだ人肉食っちゃう。しかもなぜかそれが伝染する。おなかのところがぶち抜けて向こうが見えてるというデザインのポスターが記憶に残っていますね(観たけど内容は覚えていない・・・)。
PTSDになるのは、戦場で敵を殺すからだけではない。兵士になるための訓練、これによって人間性を殺す。人間の心を持っていたら、人は殺せないからです。
つまり、兵士になった時点で、その人は一度殺されている。兵士とはゾンビなのです。
逆に、ゾンビを兵隊として使う、という作戦もあります。
これからバイオ技術とかの軍事応用によって、それが現実化することもあるかもしれませんが、映画の中ではすでに登場しています。ナチス・ゾンビです。1976年の「ゲシュタポ・ナチ死霊軍団/カリブ・ゾンビ(観てない・・・)」はナチスの秘密研究のゾンビ兵士が生き残っていて、カリブ海でビキニ女性とかを襲う。
このテのゾンビは21世紀になっても作られ続けています。2009年のノルウェー映画「処刑山(観た!おもしろかった!)」では、雪山で戦死したナチスの一個小隊が、ゾンビとなって甦ってくる。監督は「ゾンビより邪悪なものはなんだろう、そうだ、ナチスだ!」ということで考えついた、と語っています。
ちょっと話はそれますけど、ナチスのことをいくら悪く言っても、映画って許されるんですよね。タランティーノの「イングロリアス・バスターズ」なんて、ナチ皆殺しで頭の皮を剥いじまえ、という。そしてドイツの皆さんも、それを楽しんで観ている。
日本は心狭いんですかね。アンジェリーナ・ジョリー監督の「アンブロークン」、ようやく日本公開が決まりました。渋谷のイメージ・フォーラムですか。ハリウッドのメジャー作品なのに。日本軍による捕虜虐待が描かれているから「反日的だ」。すごい言い草です。昔は「戦場のメリー・クリスマス」だって大ヒットしたのに。いまでもみなさん、あのテーマ曲歌えるでしょ?捕虜虐待が描かれようが、反日だろうが、ナチス・ゾンビだろうが、映画として面白ければいいじゃないですか。つまんなかったら私は激怒しますけどね。つまんなそうなんで怖いですが。
だいたいナチス・ゾンビがあるなら、旧日本軍ゾンビだってあってもいいでしょう。戦場で人肉食べた?一個小隊が全滅した?ありますよね。大岡昇平原作、塚本晋也監督で今公開されてる「野火」がそうです。日本兵の死体と死にかけがごろごろしたジャングルで、ほぼゾンビ状態になった主人公が人肉食べるって。このまんまゾンビ映画ですよ。やればいいのに「野火・オブ・ザ・デッド」。
しかし、現在の日本においては、幸いにも、というか、ゾンビであれ人間であれ、殺しまくってPTSDになっちゃった人があふれかえってはいない。銃乱射が日常、にはなっていない。
みなさん、ハロウィンでゾンビなどの仮装をして楽しまれるかもしれませんが、アメリカという国では、そうやって「Trick or Treat」、人の家に入ったからといって、射殺されてしまう場合があります。
日本でハロウィンが楽しめるのは銃社会ではないからです。
でも、ゾンビ・パンデミックが起きた場合、どうでしょうか。
これまで私はゾンビの殺し方、死んでるのに殺し方、というのもおかしな話ですが、のルールをあえて言いませんでした。実はゾンビの殺し方は、たったひとつです。頭を潰す(何本かの映画では例外があります。そもそもゾンビは脳死なのか、心肺停止なのか、そこは明らかにされていない)。
ちょっと想像してみてください。頭を潰す。殺害方法としてはかなりグロいです。ゴキブリだってそうでしょう。スリッパで叩くのと、殺虫剤で殺すのと、どっちが楽ですか?スリッパで叩くと、ゴキブリは潰れて、中身が出ちゃう。つまり、殺した私たちは、生身の肉体の死という現実に直面しなくてはならないのです。
銃なしでゾンビを殺す、頭を潰さなくてはいけない、と言われたら?ゴキブリ殺すどころではないですよ。何がいいですかね。斧?金属バット?そのゾンビが、あなたの友達や恋人だったら?
そうした「ガールフレンド・ゾンビ」や、家族や愛犬のゾンビといった、本来なら「甦ってきてくれて嬉しい」はずの死者とどう対応するべきか。
アメリカでもキングの「ペット・セメタリー」などで描かれていることですが、日本のゾンビ作品では「殺せない、殺したくない」というパターンが結構目立ちます。それは銃が使えない、エグい殺し方をせざるを得ない、というせいもあります。
昨年テレビ東京の深夜ドラマでやっていた「玉川区役所 of the DEAD」では、ゾンビ対応が区役所職員なので(正確にはゾンビではなくてウイルス感染で、死んではいないんですが)、ゾンビは殺さない。ガムテープでぐるぐる巻きにして生け捕りです(死んでないので生け捕りで正解)。
ゾンビのことを「死なないご遺体」とか「トクホ」と呼ぶなど、なかなか日本的なリアリティのあるドラマでしたが、殺さないといっても、やはり家族や友人がゾンビになった人たちは、それをかばおうとしていました。
たぶん、これがゾンビ・パンデミックが現実に発生した場合、もっとも起こり得るパターンではないか、と私は思います。
日本映画で「ニート・オブ・ザ・デッド」というものもありますが、引きこもりの息子と寝たきりのおじぃちゃんがゾンビになってしまう。お母さんは「生前と変わらないんだから」と、そのまま暮らす、ということを選択しようとするのです。ありそうです。
もうひとつ、日本で起こり得るパターンとしては「どうせみんなゾンビになるんだから」「ゾンビの方が多数派だから」ということで、そのままにしてしまう、というのが考えられます。一億総ゾンビとかいって。
そうやってゾンビをほったらかすというパターンの作品は、私はまだ観たことがありませんが、従来のゾンビ作品の中では、「ゾンビのふりをしてゾンビから逃れようとする」同調ミーム行動がそれに近いのではないか。生きた人間がゾンビのふりをするのは、単にゾンビから逃れるための手段ではありません。ゾンビ大量発生の状況下においては、ゾンビになってしまったほうが楽だからです。
こうした同調主義というのも、決して捨てたものではありません。
さらに、最近のゾンビ映画では、イギリスの「ショーン・オブ・ザ・デッド」、フランスの「ゴール・オブ・ザ・デッド」など、ゾンビはゾンビのまま、人間の側が噛まれないように気をつけることで、共存するというラストです。ゾンビも、多少腐っていても、パブの店員だとか、スーパーのレジ打ちだとか、ニュースキャスターとして仕事に就く。殺すな。排除するな。受け入れろ。という解決策です。ヨーロッパ的ですね。
日本では宮藤官九郎、クドカン脚本の歌舞伎「大江戸りびんぐでっど」において、ゾンビを使ったハケン企業というのがありましたが、ここまで来るとブラックです。でも日本ならやりそうですね。
ゾンビと労働、ということでは、ほんとうはもう一本、
「チキン・オブ・ザ・デッド/悪魔の毒毒バリューセット」という、アメリカ・どインディー映画の雄、トロマ制作のすばらしいゾンビ・ミュージカルがあります。
これは
経済徴兵制、格差社会、ブラックバイト、自然保護、偽装、食の安全、フェミニズム、イスラム原理主義、人種差別、非モテといった、世界のあらゆる問題を詰め込んだ最高傑作なのですが、あまりに下品なのと、長くなるので、この話は止めておきます。ぜひご自分でごらんください。
みなさんにお願いです。ハロウィンにゾンビの仮装をしたならば、ぜひゾンビとは何か、しっかりと考えていただきたい。
そして、今日は六本木、来週は渋谷でパレードがあるのでしょうが、そのついでに、大手町や霞ヶ関まで足を伸ばしていただければと思います。
なぜなら我々生きる死者、生きながら殺されているジャパン・オブ・ザ・リビングデッドが、集まって、襲撃するべきなのは、ゾンビよりも人間性に乏しく、ゾンビよりも腐りきった人間ども、ヤツらの棲む街だからです。
最後に、本日のゾンビ語録で締めたいと思います。ロメロ監督のゾンビ5作目「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」のラストで、ゾンビを虐殺し続ける人間の姿に、ヒロインがつぶやく言葉です。
「彼らを、救う意味などあるのだろうか」。
戦争やめて、ゾンビ映画観ようぜ。